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色々あります

大きな災害の時の話にはいろいろとあります。
阪神大震災に時
伊丹の人が、西宮の方に姉がいるので心配になり、安否を確かめるために、交通機関はダメになっているのでまあお金もあるし、自販機などもあるからからなんとかなるだろうと、歩いて出かけたそうです。でも歩いて西宮の方に近づくにつれ、被害はますますひどくなり食料も飲み物もまったく手に入らず、飲まず食わずの状態でたどりついたそうです。渦中にいると状況がわからないのですね。

私の居たアパートの上の人の話。部屋が狭いのもいいことがあるんですね。息子の寝ていた部屋は左右にタンスを置いていたのです。それが双方倒れて来て、お互いに「人の字」の様にツッパリあって倒れるのが防がれました。息子はその隙間で助かりました。

同じアパートの人。姉はいつも始発電車で出かけていたのですが、その日は一つ遅い電車に変更したのです。もし、始発だったら駅舎の下敷きになっていたのでしょうね。(駅舎は倒壊していました。)

全国的なニュースにもなりましたが、一週間後に瓦礫の中から助け出された男の子がいましたが、聞けは
同じ工場に勤めていた方の子供さんだったようです。

伊丹には、自動車のデイスクブレーキを作っている会社があり、相当量を各自動車メーカーに収めていたそうです。早く被害から復旧させるために、日本の自動車メーカーから応援が来ました。各社のユニフォーム姿の人であふれていたそうです。

これは東日本大震災の時の話。
家族が一緒になって避難したのですが、途中で娘がもう一度家を確認してくると戻ったまま帰ってきませんでした・・・。

命からがら避難してきました。そうしたら市の西の方に住んでいる方が、犬に散歩をさせているのを見て唖然としました。
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阪神大震災

20年前の今日、当時勤務していた伊丹の工場から、今の北名古屋市の会社に転勤の日でした。いきなりドカーンと地震がやってきました。その時はちょうど単身赴任をしていて、工場の前に有る4階建てのアパートの2階で寝起きしていました。東北で地震には慣れていますが、これは大きいなーと思いましたが、身の回りでは何もないのでそのまま寝ていました。もうここの工場には私の席は無いので、慌てて出ていく必要がありません。
そうしているうちにドアをドンドンと叩く音がし「中西さん無事ですか?」の声。仕方なく外に出てみました。みんな広場に集まっていますから、出て来てくださいと言う。仕方なく出て行って見た外の風景は、私が想像していたものとは全然違っていました。工場に席はなくなっているとは言え、まだ早朝の事で指揮をする人は居ない、と思い担当していた部署に駆け付けました。ひどくやられてはいましたが、幸いけが人はいませんでした。
これがその日の始まりでした。
先にも書いた通り、すでに私はこの工場の人間ではありませんから、指示命令は出来ません。でも、こんな状態では転勤するための荷物を運ぶトラックも来ないし、自分自身もここから出ることさえ出来ませんでした。今夜から寝る所、食事の確保が出来ないのです。工場長やその次席も出勤してくることさえ出来ない有様です。
残っている人達も、私がすでにこの工場の人間でないのを知っていますから、命令して動かすことをはばかっているようでした。それで、転勤先の上司になんとか連絡を取り、状況を知らせた結果「一週間ほどそのまま残って、復旧の手伝いをする。」ことになりました。私の担当していた職場で生産したものを、転勤先に供給していましたから、早く復旧させて原材料を届ける必要があったのです。
これで、今夜からの私の寝泊りするところも食糧も確保出来ました。此の工場の人たちも、私を使う事が出来るようになりました。しかし課長職をやっていましたから、それまでそれなりの権限もあり、経験も積んでいます。こんな奴がいては新しい課長が困るだろうと思って、次のことを申し出ました。「皆さんはとにかく復旧に取り組んでください。私はこれから、打ち合わせには出ます。但し現在夜には誰もいなくなりますから、私が一週間夜勤をやります。夜の間にやることを支持してください」と・・・。

こんなことを思い出しました。